自分のペースで

大好きな読書を中心に、日々の気づきを綴ります。 目標→100記事執筆

祈りの力

 ドローン、AI、無人自動車など科学が進化しても

実は人類は解明できていないことの方が多い

このことに最近、改めて気づくキッカケとなった話がある

 

それは祈りの力について、アメリカの研究機関が行った実験の話だ

病気を抱えたグループの名簿を2つ用意する

そして1つ目のグループに対し、10人の健康な人が、その人の名前を想像しながら病気の回復を祈る。

2つめのグループには何も行わないという、対照実験を行った

 

その結果、人つ目の祈られたグループの病気を抱えた人の症状が良い方向に変化したというのだ。

一方2つめのグループは特に何の変化もなかった

例え合ったこともなくて距離がどんなに離れていても良い結果が得られたという。

グループのメンバー、場所などを変えて数回試して見ても結果は同じだったという

 

さらに、祈った本人も相手のことを祈るという事を通じて、幸福な気持ちを感じるようになったという

 

この話をきき、今コロナという状況の中、どれだけの人が相手の事幸せを思い、祈れているのだろうと思った。

ネットニュースを見ると、反対にコロナの影響の中分断を煽るようなものが多いことに気づく

 

公園で遊んでいる人を叩く人や

実家に帰省した人の情報を公開し、晒しあげる人

中国がウイルスを拡散したとヘイトスピーチをする人

 

こんな事をして何か状況が改善するのだろうか

 

公園で遊ぶというその状況だけを見て、その人を叩くというのはあまりにも短絡的ではないだろうか

コロナで自粛生活が続く中、子供を公園で遊ばしてあげたいと思う親の気持ちというのは当然なのではないか

 

またコロナの検査結果が陽性だと知りながら実家に帰省した

という人を晒す必要などどこにあるのだろうか

もしかしたら、どうしても、何としてでも実家に帰省しなければならない理由があったかもしれないではないか

 

もちろん私はその人たちを擁護するというつもりはない

ただ人それぞれ、状況は違い、その人たちの行動の裏にある気持ちを推し量る努力も必要だと思うのだ

 

そんな事をしても、その人のストレス発散や、憂さ晴らしにはなるかもしれないが

状況を好転させることはできないではないか

 

だからこそ、私はこの 「祈りが、相手に届く」

という真理に可能性を感じるのだ

 

コロナの状況の中でも、何もできないのではなく

少なくとも祈ることはできるし、相手の気持ちを考えることはできる

 

お互いに祈りを届けあえば、分断ではなく結合に向かうではないか

 

公園で遊んでいる人を見かけたら、反射的に叩くのではなく

一旦落ち着いてその人の状況を考えてみるべきだ

そうすると、結局気持ちは一緒だとわかる

 

実家に帰省したというニュースを見たら

個人情報を晒すという幼稚な事をするのではなく

なぜそうなったのかというシステムを疑った方が良いのではないか

そもそも、陽性反応がでた患者を自由にした病院はなぜ追求されないのか

 

最近、友達が経営しているお店に行くと、客が数ないと嘆いていた

またニュースを見るとコロナの影響で自殺をしてしまう人がいるということも知った

そんなニュースを見ていると、ふと

「自分はなんて無力なんだ」と思ってしまった

 

しかし無力と思っても仕方ないではないか

祈る ということに何か意味があるのならば

疑う前に実行するしかないではないか

 

無力と嘆いても何もならない