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「カラマーゾフの兄弟」 理解できない事にこそ偉大な価値がある

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 あらすじ

 カラマーゾフ家の長男ドミートリーは、父親殺しで連行されるが、容疑を否認する。殺したのは本当にドミートリーなのか、それとも別の人物なのか。全貌が明らかになる中で、19世紀ロシアで流行していた無神論や、物質主義の是非などの論議も展開されていく。あまりにも有名な大文豪ドストエフスキーの哲学が集約された、世界文学の最高傑作である。

 

 感想

 カラマーゾフの兄弟は3回目の読了だが、何度読んでも新たな発見があり、何よりも物語として面白すぎる。特に物語のクライマックスの裁判のシーンの、弁護人と検事との論舌対決は食い入るように読んだ。ストーリーを追うだけでも興奮覚めやらぬ面白さがあるが、随所に散らばっているドストエフスキーの哲学はこれから先いつまでも色褪せないであろう。

 印象に残ったのは、カラマーゾフ家の次男であるイワンが無神論について弁論するシーンである。彼は神がいるとしたらどうして、無垢で純粋な子供が虐待を受けて死んでいくのかという矛盾を述べる。神が理想国家を作るために子供の犠牲が必要だとしたら、そんな世界は願い下げだと言う。現代においても、虐待で苦しむ子供だけでなく、飢えて死んでしまう人や、戦争で言葉にもできないような方法で殺されてしまう人が現実に存在している。どうしてそんな状況が生まれるのか。それに対して宗教は何ができるのか。翻って平和な国で生活している自分には一体何ができるのか。

 そんな風に考えていると、世の中には理解できない事ばかりだという事に気が付く。どうして自分は生まれてきて、なんのために生きていくのか。学校でもなぜ虐められる人がいて、なぜ虐める人がいるのか。どうして自分が虐められるのか。など理屈ではわからない。しかし理屈で分からないといって、何も考えないで良いのだろうか。自分たちは理解できない事に対して、逃避しているのではないだろうか。そんな事を考える。

 ドストエフスキーは物語の中で、物質主義から精神主義への転換が必要であると述べている。物質を追い求めても結局人は幸せになれないからだ。精神の世界というのは無限である。精神世界は理解できない事が多いため現代では軽視されがちである。しかし理解できないからこそ、そこにこそ人類が求める価値があるのではないだろうか。

 例えば苦しんでいる人に、祈ってあげるという方法がある。祈ってどうにかなる訳ないという風に思いがちだが本当にそうだろうか。祈りというのは頭では理解できない事だ。しかしドストエフスキーの哲学でいうならば、理解できない事にこそ価値がある。ならば祈ってあげるという行為には、到底人間の頭では理解ができないような価値があるのではないだろうか。少なくとも私は、苦しんでいる友達や、貧困で苦しむ人に対して何もできないと言うのではなく、祈れる自分でありたいと思う。

 自分には何もできないとか、自分には何の力もないとか、やはり間違っている。今日自分が誰かの事を祈ってあげる事で、1ミリでも何かが変わっているのだ。自分が今日少しでも努力したり、向上したりする事できっと何かが変わる。自分が成長すれば世界はきっと良くなっていくという事を、本書を読んで確信した。