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大好きな読書を中心に、日々の気づきを綴ります。 目標→100記事執筆

西加奈子「夜が明ける」 小さな変化はきっと誰かを救う

夜が明ける

 

 

 

 あらすじ

 主人公と吃音症の友人アキの小学校の出会いから、33歳までを綴った物語。主人公は大学を卒業後、不幸な人を救いたいという希望からテレビ業界でADとして働く。しかし理想とは違い、現実はパワハラと過重労働で心身を擦り減らす日々だった。貧困問題、過重労働、パワハラ、虐待など日本社会の問題を背景に、物語は進む。

 

 感想

  読書中何度も、読むのが嫌になってしまう瞬間があった。虐待や過重労働やパワハラの渦中にいる登場人物の姿に苦しくなってしまうからだ。正直言って読んでいて楽しくなったり、ワクワクするような内容ではない。けどその分、西先生が社会問題に真摯に誠実に目を向けようとしている事がわかった。

 こんなに読んでいて苦しくなるというのは、自分の中にどうしても見たくない事というのは存在するという事なのだろう。いじめやパワハラや貧困は改善されなければならないと思う。現実に苦しんでいる人がいるからだ。その苦しみの前にはどんな理由も通用しない。けれど、その問題を直視したり、考えたりするのはきっと嫌な事なんだと思う。日常に忙殺されると考える暇なんてないし、自分の悩みに囚われると他人の事を考える事自体難しくなる。いろいろな事で苦しむ人はこの瞬間にも存在しているけれど、それを意識するというのは勇気もいることなのではないかと思った。

 だからこそ本作のような小説を読むというのは大事である。読んでいるとやっぱり社会の中に苦しみはあり、目を背けたくなるようなことはあるという事に意識を向けられるからだ。意識できたからといって何かがすぐ変わったり、1人の人間が何かをできる訳ではない。けれど、目に見えないほど小さくても何かは変化しているのではないかと思う。

 自分にもできる事は何だろうと考えた時、いくつか思い浮かぶ。

 ①政治に関わる事(納得のいく政党に投票して、勉強をする)

 ②目の前で苦しんでいる人、悩んでいる人がいたら声をかける。当たり前の事だけど見逃してしまう事は多い。

 ③自分自身が日々少しでも成長する。自分が成長していないと他人に目を向ける事はできない。

 ④本を読む。

 ⑤行動する。新しい趣味を始める。話した事ない人に話しかける。挑戦する。何でも良いけど、行動すればきっとポジティブな変化が起こる。

 

 問題に対して何もできないと思ってしまうが、きっと小さな事でも継続すれば大きな変化になる。目の前にある誰かの悩みや苦しみに敏感になり、スッと行動できるような自分になれば、それは大きな変化だ。「夜が明ける」を読了後に感じる希望は、目を背けたくなるような問題と向き合えるからなのだろう。

もっともっと楽に生きて良い

 自分にはどうしても直したい思考の癖がある。それは物事を0か100で捉えてしまうという二元論思考だ。テストも良い点を取れるか取れないか、友人関係でも好きか嫌いか、良い本悪い本など習慣として対立軸で捉えてしまっている。二元論思考が悪いとは言わないが、自分の場合はあまり良い方向に進まないことの方が多かった。例えばテストでは良い点を取りたい!と決意はあるのだが、取れたことは少ない。二元的思考で良い点が取れなければ、意味がないと思ってしまうからだ。その結果努力をするのが嫌になり、勉強しないまま当日を迎えるという事もあった。たいして何かをした訳でもないのに、相手に嫌われていると思ってしまうのも二元論であろう。実際は0か100ではなくて、その間で推移するのだ。 二元論的思考になると、失敗するのが怖くなり極端に行動ができなくなってしまう。

 そのように思い至った時、もしも自分がその考え方から少しでも脱却できたら、人生はもっともっと楽しくなると思った。人間関係だって声をかけたい人がいれば声をかければ良いのだ。嫌われるとか好かれるとかではなく、その間があるのなら失敗なんてないからだ。ゲームだってやりたいならやれば良いし、挑戦したい事があるのなら挑戦してみれば良い。要はやり過ぎる、執着し過ぎるから良くないのであって、物事は多くの場合グレーなんだと思う。

 失敗なんてないのなら、やってみたい事がたくさんある。まずはSwitchをやってみたい。(高校の時にゲーム依存になった事があり始めるのが怖かった)あとは将棋もやってみたいし、全く違うジャンルの映画とかも見てみたい。アフリカに旅にも行ってみたいし、出会ったことのない人とも話したい。好きな人に告白もしてみたいし、仕事も思いっきりやってみたい。そんな風に考えるとやってみたいことばっかりだし、世界って何倍にも広がるって思う。 

 12月からはオンラインでプログラミングスクールが始まる。プログラミングも失敗とか成功とかで考えるのではなく、もっと楽に考えたい。そもそも勉強するってことに価値があるし、挑戦するって事で大きく前進である。相対的にどんな結果であったとしても、自分としては成長できる。それにプログラミングっていうのはきっと楽しいものだと思う。そんな風に捉えて、もっともっと楽に素直に、楽しんでやってみたい。

 

トルストイ「戦争と平和」自分の人生を生き切る決意

 

戦争と平和1 (光文社古典新訳文庫)

 

 あらすじ

 19世紀、ナポレオンのロシア進行を背景にロシア貴族社会における問題や、登場人物達の成長を描く作品。有名なワーテルローの戦いやナポレオンの失墜の始まりともされるボロジノの戦いなどを皮切りに、戦争の無益さや人間の精神の崇高さなどが語られる。自分の人生や、結婚問題、財政難などに悩みもがきながらも前に進む、登場人物達の成長は現代にも通ずるものがある。作家のサマセット・モームが世界文学の最高峰と称した本作は、現代に生きる私たち人類にも普遍的なメッセージを投げかけてくれる。

 

 感想

 学生時代から過去2回挫折した本作。光文社から新訳が出たということで再挑戦した。今回読み切る事ができた事に(新訳の読みやすさもあるが)、自分も読み切れるだけの体力がついたという事まず嬉しかった。戦争と平和には人生における悩みの全てが詰まっているという言葉を聞いた事があったが、まさしくその通りである。進路についてや、恋愛や、性格やお金など現代に生きる自分でも共感できるテーマがたくさんあった。その中で印象的だったことは精神の重要さである。

 トルストイは一貫して物質主義に疑問を投げ精神主義の重要さを説いていた。青年士官のアンドレイ侯爵が、出世やお金、戦争なんてこの大空の広さに比べるとどうでも良いことなんだ、と悟るシーンがある。出世ばかりを目指してきたアンドレイ侯爵が極限状態の中で、精神の広大さに勝るものはないと気が付くのだ。

 私はこの描写を見て素直に救われる思いがした。自分は今まで自己肯定感があまり高くなく、人と比較しては落ち込むという事を繰り返していた。あいつの方が良い企業にいるとか、あいつの方が成績が良いとか、そんな事を考えては自信をなくし停滞してしまうのだ。でもきっとそんなことはどうでも良いことなんだと思う。他人と比較した価値なんてものは死を前にすると、一切がどうでも良くなる。大事なことは自分がどう生きていきたいのか、誰かのために今日をどのように生きるのかということなんだという事を思った。

 その他にもトルストイのナポレオンを英雄扱いしない点にも驚いた。ナポレオンが自分の意志で戦争を起こしたのではなく、時代がナポレオンを動かしたのだという考察は自分にとって新しかった。人は自分の意志で動いているように思えて多分に環境に左右されているという事であろう。ヒトラーホロコーストを起こしたのではなく、時代と民衆が望んだのであり、ヒトラーはその代弁者だったと捉える事もできる。

 現代でもコロナを取り巻く環境の中で、特定の誰かのせいにする論調は度々耳にする。しかし特定の1人が悪いなんてことはありえない。いつだって自分達が望んだ結果なのであり、自分もまたその状況を生んだ責任者なのだ。

 トルストイなら自分の悩みになんて答えてくれるだろうか、現代のコロナ騒ぎをどのように捉えるだろうか。こんな事を考えながら読んでいた。トルストイなら、誰かのせいにするのではなく、自分の人生を生ききれ!と自分にアドバイスをくれるような気がする。

「カラマーゾフの兄弟」 理解できない事にこそ偉大な価値がある

 

カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 あらすじ

 カラマーゾフ家の長男ドミートリーは、父親殺しで連行されるが、容疑を否認する。殺したのは本当にドミートリーなのか、それとも別の人物なのか。全貌が明らかになる中で、19世紀ロシアで流行していた無神論や、物質主義の是非などの論議も展開されていく。あまりにも有名な大文豪ドストエフスキーの哲学が集約された、世界文学の最高傑作である。

 

 感想

 カラマーゾフの兄弟は3回目の読了だが、何度読んでも新たな発見があり、何よりも物語として面白すぎる。特に物語のクライマックスの裁判のシーンの、弁護人と検事との論舌対決は食い入るように読んだ。ストーリーを追うだけでも興奮覚めやらぬ面白さがあるが、随所に散らばっているドストエフスキーの哲学はこれから先いつまでも色褪せないであろう。

 印象に残ったのは、カラマーゾフ家の次男であるイワンが無神論について弁論するシーンである。彼は神がいるとしたらどうして、無垢で純粋な子供が虐待を受けて死んでいくのかという矛盾を述べる。神が理想国家を作るために子供の犠牲が必要だとしたら、そんな世界は願い下げだと言う。現代においても、虐待で苦しむ子供だけでなく、飢えて死んでしまう人や、戦争で言葉にもできないような方法で殺されてしまう人が現実に存在している。どうしてそんな状況が生まれるのか。それに対して宗教は何ができるのか。翻って平和な国で生活している自分には一体何ができるのか。

 そんな風に考えていると、世の中には理解できない事ばかりだという事に気が付く。どうして自分は生まれてきて、なんのために生きていくのか。学校でもなぜ虐められる人がいて、なぜ虐める人がいるのか。どうして自分が虐められるのか。など理屈ではわからない。しかし理屈で分からないといって、何も考えないで良いのだろうか。自分たちは理解できない事に対して、逃避しているのではないだろうか。そんな事を考える。

 ドストエフスキーは物語の中で、物質主義から精神主義への転換が必要であると述べている。物質を追い求めても結局人は幸せになれないからだ。精神の世界というのは無限である。精神世界は理解できない事が多いため現代では軽視されがちである。しかし理解できないからこそ、そこにこそ人類が求める価値があるのではないだろうか。

 例えば苦しんでいる人に、祈ってあげるという方法がある。祈ってどうにかなる訳ないという風に思いがちだが本当にそうだろうか。祈りというのは頭では理解できない事だ。しかしドストエフスキーの哲学でいうならば、理解できない事にこそ価値がある。ならば祈ってあげるという行為には、到底人間の頭では理解ができないような価値があるのではないだろうか。少なくとも私は、苦しんでいる友達や、貧困で苦しむ人に対して何もできないと言うのではなく、祈れる自分でありたいと思う。

 自分には何もできないとか、自分には何の力もないとか、やはり間違っている。今日自分が誰かの事を祈ってあげる事で、1ミリでも何かが変わっているのだ。自分が今日少しでも努力したり、向上したりする事できっと何かが変わる。自分が成長すれば世界はきっと良くなっていくという事を、本書を読んで確信した。

 

司馬遼太郎「峠」 信念で自分の道を切り開く

 

 

 

峠(上)(新潮文庫)

あらすじ

 峠は司馬遼太郎の描く、幕末物の一つである。主人公は越後長岡藩河井継之助。継之助は薩長旧幕府軍の間で行われた戊辰戦争において、越後藩を中立という立場に置こうとした事で有名である。7万石の小藩である越後藩をどうやって中立という立場に持っていくのか。継之助を支える信念とは何か。小説の中で語られる。

 

感想

 司馬遼太郎の幕末シリーズが好きで、今回峠を読んだ。幕末の動乱期に中立という立場を取ろうとした越後藩に興味を抱いたからである。周囲の反対や圧迫に屈せず越後藩の運命のために奔走した継之助に心を揺さぶられた。継之助が信奉していた行動なくして知識なしという陽明学、時代に流されず信念を貫いた崇高さ。そして早くから時代を読み外国と取引をしていた先見性と行動力。素直にかっこいいと思った。先のばかり考えるのではなく、自分の信念で動く。そんな風な男に自分もなりたい。

おかえりモネ 題56回

 あらすじ 

 気象予報士として仕事をするモネは、東北に巨大な台風が来るという予測に危機感を持つ。的確に指示を出すモネに、気仙沼に暮らす家族は成長を感じる。そんな中、モネの暮らすシェアハウスで、住民のおじいちゃんが熱中症で倒れてしまうが、たまたま居合わせた菅波に助けを受け、事なきを得る。台風を目前にしてモネはどのように動くのか。菅波先生とモネとの関係はどうなっていくのか。モネの成長に期待が膨らみ話が終わる。

 

 感想

 モネの成長が強く実感できるような回であり、自分自身も頑張ろうと触発された。モネは東北の台風に不安と危機感を抱きながらも、自分が具体的に行動できた事に手応えも感じていると思う。気仙沼で暮らす家族や友人を支えられる仕事がしたい、という事がモネの目標であり、願いだったからだ。その漠然とした思いから始まり、気象予報という仕事に出会い、迷いながら、立ち止まりながら進んできたそのさきに今回の立ち回りがある。モネが自分を信じなんとか前進したからこそ出来た今である。

 自分の決めた道を進むというのは不安だと私は思う。私自身迷ってばかりだ。でも今日のモネの姿をみて、やっぱり不安でも進む事が大事だって思った。先のことなんてわからない。自分の決めた道が、自分の理想に向かうなんてわからない。でもそれでもやるしかない。やるしかないと腹を括る事が大事なんだって思った。自分にとっておかえりモネというドラマは、人生における1つの成功モデルである。1人の人間がどのように成長し、そしてどのような未来を紡いでいくのか。だからこそドラマをみながら、少しでも自分の成長に繋げていけるようにしたいと思う。

世に棲む日日 司馬遼太郎

   私は自分の悩みや不安を打ち消してくれるような痛快な小説が好きである。小説の中の主人公は世間の風潮に流されたり、小さな枠組みにとらわれたりしない。自分の信念を貫き、愛する人を守り、時には大胆に理想を現実に変えるべく行動する。昔から人目を気にしすぎて動けなくなってしまう癖がる自分にとって、憧れであり理想である。司馬遼太郎の世に棲む日々では、幕末の時代に自分の信念を貫き革命を起こした2人の男の生き様が描かれている。他人に後ろ指を刺されようが、不可能だと思われようが、死が待ち構えていようが、信念を貫く。この小説を読むと、自分もこんな風な生き方をしたいと強く思わしてくれる。

 あらすじ

  幕末期、明治維新の主軸の1つとなった長州藩。その長州藩吉田松陰とその弟子である高杉晋作を主人公にして物語は進む。前半は吉田松陰の生涯である。当時事なかれ主義であった長州藩は、吉田松陰という1人の男の思想によって最終的には倒幕主義に変わっていく。吉田松陰がどのようにしてその思想を形成したのか、そしてその思想をどうやって弟子に伝えたのか。松蔭は幕府によって処刑されるが、その意志は弟子によって引き継がれていく。後半は松蔭の弟子である高杉晋作を主人公にして進んでいく。松蔭の理想を現実のものにしたのは高杉新作の実行力であった。動けば雷のごとく迅速に、計画を実

行していく。松蔭亡き後、晋作が長州藩を指揮し時代を明治維新へと転換させていく。幕末という動乱期に自分の信念を貫き通した2人の男の生き様を描く。

 

 感想

 吉田松陰高杉晋作の生き様をみて、素直に思ったことはこれほどまでに凄い人がわずか150年前の日本にいたのかという感慨である。松蔭は友達との約束を守るためだけに禁忌とされていた脱藩をしたり、死を覚悟して外国船に密入国しようとする。それは決して自分のためではなく長州藩のためであり信念を貫くためであった。また高杉晋作もまた長州藩のため、また日本という国のために死を覚悟して突き進む。その行動力と胆力は今の日本人

ではなかなか持てないような凄まじさである。翻って私自身は、小さなことでクヨクヨして、決断せずに事なかれで暮らしている。自分の決断や進路など当時の幕末に生きていた人からするとなんと些細なことであろう。死を覚悟して奔走していた人たちなのだ。だからこそ大胆に動くし、時には禁忌だって犯す。もっともっと自分も大胆になれるはずだ。もっともっと勇気を持てるはずだ。そんな風に思った。